中庭を見下ろせる窓から陽光が差し込んでいる。
気がつくと私はとある美術学校の廊下に居た。
今は授業中。
教室を覗くとほぼ2割程しか席は埋まっておらず、教師は不在。
生徒は静かにデッサン自習している。
では埋まっていない大半の空席の生徒は、皆一体何をしているのか。
廊下を見渡すと、色分けされたグループが多数居た。
赤、黄、緑・・・さまざまな色の服装。
彼らはこぞって皆集団を作り、大騒ぎしている。
自分で制作した展示品や絵画・研究物を協力しながら見えるように掲げながら。
色対抗で我一番にと大きな声で発表をしているのだ。
何故か注意する教師は存在しない。
その、一種学校崩壊的な様子を冷めた目で傍観しながら。
私は青のグループの一員となって作品を手にしていた。
…何故私はこんなことをしているのだろう。
疑問がふつふつと沸き起こるも、流されるままにここに居る自分。
呆ける自分に隣の奴が、ちゃんと作品を持てよとやかましく注意する。
…ああ、こんなことならここに来なければ良かった。
後悔の念が胸の中で膨らみ、知らず視線も腕も垂れ下がっていく。
ここに居ることに何の意味があるのか。考えてもすぐにわかるはずもない。
作品が、手から落ちた。
かつーん。
その音を合図にして、私はその場から逃走を試みる。
ともかくここから抜けるしか…逃げるしかない。
走る。走る。景色が流れるように動く。
各グループ内の結束は固い。
忠誠的な仲間には寛容だが、非協力者・離反者は断罪ものである。
当然、背後からはすぐさま青の追跡者。
私のどこにこんな大それた事をする勇気があったのだろうと驚きつつ、必死で走り続ける。
衝動的だった。逃げた後のことは全く考えていない。
捕まった後どんな制裁が加えられるのか、想像する余地も無くただひたすらに走った。
目の前に現れた階段を駆け上がり、踊り場で振り向く。
約1階半程下から響く怒声。
まだ諦めないのかしつこい奴らだ。
なおも階段を駆け上がる。弾む息。
足は不思議と重みを増すことなく、言う事を聞いてくれる。
3階層程のぼった後、無機質な白い扉が目の前に飛び込んできた。
…屋上だ!
反射的にドアノブを掴んで転がり込む。
鉄製のドアが、ものすごい残響とともに閉じられた。
慌ててカギをかけ、ドアを背に息を整える。
静寂。
下からの騒がしさも全く聞こえない。しばしの休息。
気付けば心臓の音がひどい。急激に働かせすぎた体が軋む。
ずるずるとしゃがみこみ、撒いた少しの安堵とぬぐえない追跡の恐怖に俯く。
数刻後、ゆるゆると辺りに視線を投げてみた私は絶句した。
思わずここは本当に屋上なのかと疑問を抱く光景がそこにあったからだ。
狭すぎる。ベランダ程の広さしかない。
柵は無く、跨げる程度の高さの壁でいくつかに区切られた区画があり、
さらにあろうことか中に水が薄く張ってある。
水に濡れぬよう爪先立ちで進みおそるおそる下を覗くと、
なんと階下にも似たような世界が広がっていた。
各階ごとに小さなプールのようなベランダが無数にある。
そして何故か。
たくさんの人たちが、区切られたプールごとに2人1組になって存在していた。
足をつけて水遊びをする者たち。
水着で楽しそうに泳いでいる者たち。
服を着たまま水に浮かんでいる者たち。
何か言い争って水をかけあっている者たち。
それはまるで2人だけの空間。
周りを気にすることない、おのおのの過ごし方がそこにあった。
困惑しながら眺めていると、ふいに背後から名前を呼ばれた。
…青の奴らに追いつかれた?!
こわばった表情で勢いよく振り向くと。
そこには、懐かしい顔があった。
すらりと伸びた背丈、青みがかった藍色の髪の青年がそこに立っている。
穏やかな表情。目じりに笑い皺がうっすら浮かぶ。
…久しぶりだね。
忘れもしない顔だった。
かつては同じ美術の道を歩んだ、かけがえのない人。
意見がぶつかることもあったけど、2人で求めた方向性はどこか一緒で。
刺激し合いながらも不思議と気が合った。
一緒にいる時間が本当に綺麗な宝物みたいで。
ずっと永遠だと信じてた。
その彼が。
今目の前に立っている。
何故。どうして。
…少し、話さないか。
私の疑問詞を遮るかのように、ぽつり。
右の手を差し出して「××さん」と付け加える。
ああ、変わらない。
一緒に居た5年間、彼は私を呼び捨てにすることは一度も無かった。
必ず私の右手を引いて、そして絶対に目を合わせてから歩き始めるのだ。
水を気にすることもなく、足を踏み出し手を伸ばす彼。
ためらいを払拭し、私はそっと手を伸ばしてその大きな手を掴んだ。
ぐるりと水を迂回するように彼に近づき、腰を下ろした彼に並ぶ。
手を持ち替えた彼の左手が私に触れる。
私の右手は彼の大きな左手にすっぽりとおさまった。
ひんやりとした温度を感じつつも、何故かあたたかさが胸に広がる。
何故彼がここにいるのか、どうしてあの時の姿のままなのか。
そんな疑問よりも今ここで再会した喜びと驚きの方が強くなリ始めていた。
…あれから、どうしてた。
ふいにそんな会話がお互い口をついて出る。
聞いても仕方がないことは承知の上での質問。
外部的な圧力からの誤解と、積み重なったすれ違い。
そんなものに振り回された私たちは、共に歩むことをやめてしまった。
蓋をした過去にとらわれまいとして、また美術の道を歩き出した私。
けれど、尚もその道について疑問を抱き続けている自分。
そんな状態の中、この学校で彼に再会するとはなんと皮肉なことだろう。
そもそも彼の才能も考えたら、こんな所で会えるはずは到底無いのに。
沈黙にまぎれて、つむがれていく言葉。
彼を失った私の道など到底比べ物にならなかった、壮絶な彼の道。
消えない離別の哀しさ。毎夜求めてしまう声にならない感情。
意欲に伴わない作品の質。請われ続けてゆく名声。
いつしか美術に関わることさえ苦痛を伴っていった。
作品を作り出すはずの手が、知らず自分の体を壊していく。
今際の際にも浮かんだのは、まぶしかった私とのあの日々。
私のいたたまれない表情を見て微笑すると、彼はかぶりを振った。
結果はどうあれ始点を否定するのはやめて欲しい。
その輝きが自身を照らしてくれた。糧となった。
出逢えたことは決して間違いでも無駄でもなかった。
…だからもうこれまでの自分を認めてあげていい。次へ進むために。
とめどなく流れる私の涙をぬぐい、ふいに立ち上がる青年。
浮かぶのは哀しく消えてしまいそうな笑み。
この先に予感する、またも目の当たりにしなければならない現実を、考えたくなかった。
何故…何故また同じ事を繰り返さなければならないのか。
物分りのいいように振舞って別れを受け入れた、かつての自分。
今は醜い感情を隠す必要などどこにある?
無様に引き止める姿をさらしてでも、もう失いたくはない。
『離れたくない!』
叫びとともに強く、握った手に込めた力は、私の意に反して開かれてしまう。
ひんやりとした感触に混じる、ほのかにあたたかな風。
感覚のなくなりかけた手のひらにそっと置かれる、小さな美術品。
…キミにあげられる、最後の―。
途切れた言葉が、その邂逅の最後となった。
間。
遠くアナウンスの声が流れ、微かな喧騒の中で目を覚ます。
目じりから流れた涙の乾きが、ちりちりと顔を刺激した。
目の前に飛び込んでくるのは美術館内の案内板と、美術作品たち。
あたりでは私と同じ学部の生徒たちが様々な美術品を見学している。
…立ちながら夢を見るなんて、一体どうしたことだろう。
ぼんやりと彫刻の前で立ちすくみ、乾いた涙の痕を拭って考え込む。
今のは明らかに白昼夢だ。
だって彼はもう…この世に居るはずが無いのだから。
あんな幻想を見るなんて、私は一体いつまで引き摺っているというのか…。
図らずもため息が漏れるが、冷静さを取り戻そうと、私はかぶりを振った。
「あーいたいた。お前どこ行ってたんだよ。はぐれるとかバカもいいとこだろ」
後ろから不機嫌な声が響き、頭に手を乗せられ髪をかきまぜられる。
瞬間、自分の怒鳴る声よりも前に、行動が先をついて出た。
渾身を込めた肘打ちを放つ。うまいことクリティカルヒットしたようだ。悶絶する声の主。
「ってェ!何しやがんだよ、探しに来てやったのに!」
脇腹を押さえ毒づきながら、私を睨む彼がそこに立っていた。
幼さを残した表情には、先ほどの彼の面影など微塵もない。
『会うなり何すんの。失礼だと思わないの?』
私は安堵を隠しながら、いつものように軽口を叩く。
同じ美術学部である彼と私とは、お互いに口を開けば日々ケンカ。
歳もずいぶん離れているし、意見が合う事なんて殆ど無い。
だが、こうもウマの合わない人間が一緒に居るなんて、
本当に世の中何があるかわからなかったりする。
「あーあぶね。壊されなくて良かったわ…ホレ」
やや涙目になりながらそう言うと、
彼は手の中で大事そうに抱えていた美術品を私に差し出す。
眉をしかめていた私は、その品を見るなり、思わず息をのんだ。
光を反射しながら輝く、小さな美術品。
それは。
先程の夢でかつての彼から手渡された、七色に輝く硝子で出来たものと全く同じ物だった。
「…やるわ、お前に」
静かに、だがぶっきらぼうに突き出される七色のそれを、私は震える手で受け取った。
先程の夢の感触が妙にリアルに蘇る。
『…どうして』
これをアンタが持ってるの。
私の声色がおかしい事に気付いてか知らずか、目の前の彼が視線を逸らしながら答える。
「なんでって。さっきそこの体験工房で作ったんだよ。
何かこういうのが作りたかったんだ。わかんねーけど。
そんで…お前にこれを渡さなきゃって、そんな気がして」
青年の瞳が私を射抜く。青みがかったその深い藍色が、あの人の髪の色と重なる。
…最後の「 」だ。
リフレインする言葉。
私は目の前の彼の胸にもたれかかるようにして俯いた。
困惑する彼。泣き声を殺す私。
過去があるから、今がある。
辛かった想い出があるから、新しい想い出はより輝きを増す。
もう、否定をするのは最後にしよう。
今というこの道を、言い訳しながら歩くなんてナンセンスだ。
『…ありがとう』
そうつぶやくだけで精一杯だった。
過去も今のこの想いも、いつの日か正直に彼に話そう。そうしてまた歩き出す。共に。
彼にしがみつき嗚咽をもらす私に戸惑いながらも、優しく肩を抱くその腕は…今までで一番あたたかかった。
FIN
あとがき。
奇妙な夢を見ました。
本当にビックリするほど起承転結で。
断片をひろいあげつつ、肉付けして書いてみましたが
夢での感情ってふとした瞬間に蘇ってくるんですよね。
過去を引き摺ることは、誰にでもあることだと思います。
輝いた過去もあれば、消してしまいたい過去もある。
今の自分が作られたのは、すべてひっくるめた過去があるからこそ。
思わず全否定してしまいたくなりますけど、
誰かに認めてもらえるだけでも救われた気になるのは、私が弱いからでしょうか。
ちなみに。
このSSには私のツボである以下のキーワードが含まれています。
集団からの離反と追跡・逃走劇。
かつての恋人との再会(すでに死別)。
当人同士だけで通じる癖。
想い出語り。
繰り返される悲しみ・歴史。
「最後の○○」。
口喧嘩。
奇妙な裏づけのある、でも自分ではよくわからない行動。
生まれ変わりとはまた違った想い出の発見。
口悪い人のさりげない優しさ。
含ませた終わり方。
どこぞで使い古された感のある、アレですね。
思ったより相当深く私に根付いているようです。
さて。
「私」は男か女なのか。
渡された美術品は何だったのか。
また、最後の「 」この空白には何が入るのか。
このあたりは、読んでいただいた方それぞれが想像して下さいませ。
拙い文章ですが読んでいただきありがとうございました。
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